今こそ先義後利に学ぶ②

時は1837年天保8年に大塩平八郎の乱」である。1833年に起きた天保の大飢饉をきっかけに、飢えに苦しむ人が増大した江戸末期。餓死する人が数多く出ているにも関わらず庶民への救済策を講じない幕府に対し、大塩平八郎が起こしたのが「大塩平八郎の乱」です。幕府の支配が弱まるきっかにもなったこの事件の概要やきっかけ、大塩平八郎の百貨店「大丸」との意外な関係性のお話です。彼は代々、大阪の東町奉行組与力をしていた家の8代目。与力とは幕府の役職名で、上官が町奉行をする際の補佐にあたり、それなりの地位がありました。大塩平八郎は、頑固者でありながらも汚職を嫌う正義漢として、不正を次々と暴き、同僚の悪事も内部告発するほどの辣腕ぶりだったそうです。

当時、腐敗していた奉行所内では、少なからず彼を憎んでいる者も存在していました。しかし市民からは尊敬を集め、上司の高井実徳(たかいさねのり)も、彼を後押ししていたそうです。しかし1830年にそんな高井が転勤することになります。すると大塩は与力を退職し、独学で「陽明学」を学ぶようになりました。陽明学とは、自身の純粋な心の声に素直に従い、自分が本当に正しいと思うことは何かを考える学問のことです。大塩平八郎が生きた1800年代の日本は、長期にわたって飢饉が発生した時期でした。江戸時代には4回の大飢饉がありましたが、彼が経験したのは1833年から1839年にかけて起きた「天保の大飢饉」です。主な原因は、大雨による洪水や冷害などが原因の大凶作でした。

そして当時の幕府や商人たちの対応に不満を抱いたことが、彼が反乱を起こした大きな理由です。「天保の大飢饉」は、1833年の秋から1834年の夏にかけてと、1836年の秋から1837年の夏にかけて、特に大きな被害があったといいます。1度目は大阪西町奉行を務めていた矢部定謙(さだのり)やその部下が尽力して切り抜けることができました。しかし2度目の際には矢部が転勤していて対応できず、豪商たちが米を買い占めたため、価格が高騰。民衆は手を出すことができず、ますます食べるものが無くなってしまいました。大塩平八郎は、大阪で暮らす人々が苦しんでいることに危機感を募らせます。東町奉行に対してさまざまな働きかけをしますが、まったく聞き入れてもらえません。政策が却下されると、今度は私財を投げ打って救済活動をおこないました。しかし治安が悪化していきます。

そこで大塩は、奉行らを討ち、豪商も焼き討ちにするしか根本的解決は望めないとして、門下生と武装決起を決意することになるのです。1837年のことでした。兵火に焼かれた家は2万戸、大阪市の4分の1にものぼり、死傷者は2万数千人と記録されている。その中で襲撃を免れた店があった。「大丸」である。大丸の前に来た大塩は「大丸は義商なり、犯すなかれ」と叫び、民衆を抑えたと伝えられています。彦衛門の時代から120年以上も経っているにもかかわらずその先義後利の教えは大丸の商いに根ずき300年以上経った今でも大丸の社是として大切に受け継がれています。

つまり創業者下村彦衛門は「顧客第一主義に徹すれば利益は自ずからついてくる」という考え方です。先義後利、今の時代には一番大事な教えではないでしょうか、今でいうコロナ過の中での献身的な医療スタッフの皆さんは言うまでもなくこの教えを実践なさっておられます。我々一人一人が今、社会の為、皆の為に何ができるかを考え生きていかなければならない時代ではないでしょうか、