73回目の終戦記念日に思うこと

今年も先の大戦から73回目の夏を迎えました。テレビではあの戦争で愛する人を亡くした方の悲しみを思い、また悲惨な争いの犠牲になられた人たちに哀悼の意を捧げる行事が一日中流れていましたがあの戦争がなぜ起こったのかを知る人がどのくらいおられるのだろうか、戦争反対!絶対この平和を守らなければとか口では簡単に言えます。その当時の人々も平和の尊さや戦争の悲惨さは解っており誰も戦などしたくは無かったと思います。ではなぜ戦争に至ったのかを検証しなければなりません。

あの太平洋戦争は日本では大東亜戦争と呼ばれ新しいアジアの新ルールを作る戦争であると認識していました。そもそも、日本がこの戦争を起こした目的は、インドから東南アジア、中国大陸、日本列島に至る「東アジア(東亜)」から欧米諸国の植民地政府を追い出し、彼らの人種差別に苦しむ時代を終わらせ、日本を中心に「大東亜共栄圏」という共同体を構築することで新たな秩序を築くことでした。「大東亜戦争」という名称に、そのような「大義」を表していたのです。

アメリカをはじめとする連合国は、日本が「大東亜戦争」を起こす以前に自分たちが東アジアで行っていた残虐行為を指摘され、その欧米諸国の残虐行為を東アジアから追い出そうとした日本(日本=正義)というイメージが日本人や東アジアの人々の間で共有されることを恐れました。そのため、そのような日本の戦争大義の表われである「大東亜戦争」という名称を禁止し、代わりに「太平洋戦争」という名称を強制したわけです。

つまり、「太平洋戦争」という名称には、戦前に東アジアで行われていたことや、それに対抗し改善しようとした日本の姿勢を隠蔽し、これらの地域(東アジア)の歴史から我々日本人の意識を逸らす効果があるわけです。そのようなGHQの方針により、報道や教育の場から「大東亜戦争」の名称が使用できなくなったため、我々日本人にはこの点(戦前の東アジアがどのような状態だったのかという点)についての知識が欠落しているのです。もともと日本の侵略的戦争が悪でアメリカがそれを叩き潰す正義という名の下で戦後アメリカがそのように決め付けました。

戦争というのはお互いに原因があり本来は喧嘩両成敗です。ところがそういうわけには行きませんでした。中国に進出していた日本とアメリカがその利害でぶつかりました。しかし戦後マッカーサーは日本が戦争に至ったのは侵略ではなくてあくまで自衛のためであったとアメリカの議会で述べたのです。その当時日本はロシアが一番の脅威と感じておりました。欧米諸国よりロシアの侵略征服欲は旺盛でありそこを食い止めるべき大陸に出て行ったのです。

アメリカはその当時は共産主義自体を脅威と思わず中国・ロシアと結託して日本を追い込んでいきました。なんとかしてこの日本をつぶさなければならないと考えたアメリカはABCD包囲網を張り巡らせAはアメリカBはブリティッシュ(イギリス)Cはチャイナ(中国)Dはダッチ(オランダ)の意味です。この国々は日本に対して石油・鉄鉱石・ゴム・生活必需品などを売らず干上がるのを待つつもりでした。それまでいかに戦争を回避できるかなんどもアメリカに交渉をしてきましたがアメリカは日本をつぶしたいので絶対戦争に持ち込みます。絶対飲めない条件を叩きつけ日本を追い込んでいきました。

結局日本は座して死を待つより戦って活路を開くしかないと判断したのです。日本が真珠湾を奇襲攻撃したときにはアメリカ大統領のルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は歓喜に酔いしれていました。これで日本を叩き潰し、またアジアを植民地にして虐殺や略奪ができると喜びました。実際のところ日本が国連で人種差別はだめということをいって各国に賛同を得ましたがアメリカとイギリスが反対してこの案件は流れてしまいました。そこで日本は自国の為と東アジア圏の植民地解放を目指して立ち上がったのです。

そこから先は皆さんの知っている通りも負けて降伏している状態なのに原爆を落とされ各都市は爆撃で焦土と化し日本はポツダム宣言を受託し無条件降伏をしました。そしてマッカーサーは二度と日本が立ち上がれないように日本の教育・文化・武士道などを全面否定し日本人に骨抜き教育をしてしまいました。

お陰で(皮肉ですが)今の日本人の体たらくぶりはどうですか、人の迷惑顧みず我がのことだけ、倫理も道徳もどこかに置き忘れてきたかのような信じられない新人類たち、しかしその反面、東日本大震災における日本人のマナーの良さ、あれは東北地方でちゃんと日本人の遺伝子が繋ぎとめられている地域だからです。都会では略奪やら強奪が起きていたかも解りません。いずれにしてもこのままいけばまた世界大戦になりかねません。

そうでしょ、我がの事が最優先で人の事なんかまったく、どうでもよいのですから、そうなると人を蹴落としてでも自分は良い思いをするというのは必然です。また世界が危ない時代に入っていきますよ、心してかからないと、今度の戦争は人類大量絶滅になります。ですから今一度どうあるべきか皆で考え賢い選択をすべきですね、とにもかくにも我々がこの平和と言う国家の上を2本の足で立てているのは先の大戦で散っていった数多くの人達の屍の上に立てていることを忘れてはならないと思います。

早や!あれから1年

弊社OBの営業部長ご夫妻が亡くなり1年が過ぎました。
衝撃的な亡くなりかたで自分の気持ちもなかなか整理ができずに1年は喪に服しておりましたがこの1周忌を機にまたブログを再会させて頂きます。昨年の6月24日が命日でしたので小豆島のほうへ出向いて行きお二人がお亡くなりになられたお家にお参りをさせていただこうと6月26日に姫路港よりフェリーで福田港に渡り弊社の現営業部長が高松より車でフェリーに乗り先に到着して待機してくれているとのことでした。

12時55分定刻通りに接岸し下船すると早速部長が待っていてくれました。「ご苦労さん。ありがとう」と声をかけて車に乗りこみ早速、土庄にあるスーパーマルナカまで献花を買いに向かいました。途中で軽く昼食をとり急いで土庄まで行く道中帰りは姫路に行くより乗船時間は掛かっても神戸三宮までフェリーで戻るほうが結局早いかも知れないなあと話をして帰りのフェリーの時間を確かめると15時15分が一番良いと知り現在時間を確認すると14時25分です。

こりゃ急がないと船に乗り遅れると思い花屋に着くなりすぐ作ってくださいと頼み店員さんも応援してもらう人を事務所に呼びに行き連れてきましたがこちらは焦っているので二人がトボトボ歩いているのを見て腹立たしく何歩いてるん!急がなあかんよぉ~!と大声を上げたら駆け足で飛んできました。早く!早く!間に合わないよ!と急かしまくり出来たのが14時43分です。さあ家までひとっ飛び!急いで車を飛ばし到着したのが14時55分です。

1年経って住居を見たときにまたあの時の悲しみがこみ上げてきます。真新しい表札に郵便受けには溢れんばかりの郵便物、荒れ果てた庭には練炭火鉢が当時のまま置かれていました。その横に置いてあったポリバケツに花束を二つ入れて玄関に置きそっと手を合わせ冥福を祈ったその時です。建物全体からパキッパキッと大きな音が鳴り始め暫く鳴り止まずに鳴り続けているではありませんか、同行している部長にこれは何の音だろうと言って聞いてみると“いや、わかりません。でも社長が来られて喜んでおられるのを知らせているのではないですか”と言ってくれました。それならいいのだけどね、と言いましたがこんな不思議な事が起きるんだとびっくりです。そして、はっと時計を見ると15時03分です。

急ごう間に合わない、そう言って車に乗り込み坂手港までぶっ飛ばしました。坂手港に着いたのが15時13分車でした。もう乗船する車が乗り込むかどうかの時に係員さんに、はいこちらに並んでくださいと誘導され安堵していたら、係りの人が乗船チケットは持っておられますねと聞かれいや、まだですと言ったら”すぐに買ってきてください”と急かされ慌てて部長が走って買いに行ってくれました。ヤレヤレ間に合ったなあと3時間掛けて三宮まで帰り21時位に我家に帰り着きました。

数日経ってお身内の方から連絡を頂き8月に入れば四条畷の霊園の合同墓地にお二人の遺骨を埋葬して墓石に名前を入れますと聞きましたのでお盆前にお参りに行ってまいりました。お二人の名前が仲良く並び心より冥福を祈り、これで天国の静かな場所でいつまでも奥さんと一緒に安らかな御霊となりお眠りください。お二人のことはいつまでも忘れません。僕の心の中にもひとつの区切りが出来た8月10日でした。 合掌