生きるとは死にきる事かと!

それは1本の携帯電話の着信音より始まりました。

「汲田さんの携帯電話でしょうか」と落ち着いた口調の男性の声が聞こえ、「はい、そうですが、どちらさんですか」と尋ねると、「こちらは小豆警察署のものですが」と言われ思わず緊張が走り、「どのようなご用件でしょうか」と問い返すと、「吉川(仮名)さんはご存知でしょうか」と私の良く知っている方でした。

 

「はい、良く存じ上げておりますが」と答えると、「つい先日ご夫妻でお亡くなられ、走り書きのように書き留められた便箋に、汲田さんの名前と携帯電話の番号が書かれていましたもので、お電話をさせて頂きました」と衝撃の内容で、「どうなされたのですか!」と聞くと、「まだ何とも申し上げられません。ご近所の方から郵便物がポストに溜まっているのでと、通報があり私が第一発見者です。只今検死の最中ですのでなんとも申し上げれません。

 

それはそうと、汲田さんとはどのようなご関係でしたか」と問われるので、「30年以上も前からの仕事やプライベートでの先輩にあたり、我社にも在籍して頂き15年前に定年退職なされ、お子様もおられないので晩年は奥様と小豆島に田舎暮らしをしたいと、早くからお考えでした。移り住み始められた頃は良く遊びに行きましたが、近年は昔からお悪くされていた足腰の様子が芳しくなくて、車椅子の生活をなさっていたと聞いておりましたので、心配でちょくちょくそちらに行くと電話をするのですが、来ないでくれの一点張りで何度頼んでもダメでした。

 

ところで、その走り書きにはなんとかいてあったのですかと」尋ねると「静かに逝かせて貰います。あとは、この方に連絡をしてください」と、私の名前が書いてあったそうです。ところで「他にお身内の方はおられないでしょうか」と聞かれるので、「当初、私が会いに行っていた頃には良く奥様の妹さんが来られると聞いていました」と、答えると「有難うございます。すぐに探して連絡してみます。」と、電話は終わりました。電話を切ってからも、吉川さんご夫妻のお顔が浮かび、また他に選択肢はなかったのか、私がもっと強行に言ってお会いして話を聞けば、このようなことにはならなかったのではとか、それからは仕事が手に付かずそのようなことばかり考えておりました。

 

そうしていると、夕方に今度は小豆島の役場から連絡が入り、お身内に連絡をしましたが、どうも良い返事はもらえませんでした。お体も悪くてこちらには出向いて行けないと言われ、ご遺体の引き取りも無理との内容の話でした。そして、直葬に掛かるお金の事とか色々相談を受けましたので、「解りました。私がそちらに出向いて立会いを致します」と答えて、明後日に三宮ジャンボフェリーにて向かいました。

 

3時間の到着時間まで、ああでもないこうでもないと不安ばかりが募り、気が重たくなることばかり考えていました。さあフェリーが接岸して着くや否や、待ち合わせの斎場に車を走らせとにかく最後まできっちりと故人さんの為に動かなければと、その時には不安などは吹き飛んでいました。斎場で待っている間、役場の人と色々打ち合わせをしていると葬儀社の車が到着し、最後のお別れを致しました。

 

お顔はご両人とも穏やかな顔をなさっておられ、ほぼ同時刻に旅立たれたご様子ですと聞かされた時は、おかしな話ですが胸を撫で下ろしました。事件性があればどうしようと考えていたからです。そのあと、お骨上げまで時間がありましたのでお家のほうに出向き、花束を捧げて手を合わせ斎場の方に戻り、お骨を無縁仏のお堂に祀りその日は帰ってまいりました。また改めてゆかりの合った人たちに声をお掛けして、参らせてもらおうと思います。

 

さて、自分なりに吉川さんの事を考えるとこう解釈します。まず足腰が不自由になり、頭はしっかりなさっておられたのですが、言語がおぼつかなくなっておられました。また奥さんも腕を骨折なされ後遺症に悩まされ、元々お体が強くなくて足も悪くヘルパーさんにお世話になる日常が、吉川さんには自分で自分が許せなかったのではないかと思います。人の世話が大好きで男意気があり、同情されるのがなにより嫌いな人でした。

 

これは聞いた話ですが、デイサービスから帰ってくると必ず「早く死にたい、明日死ぬか」と、奥さんに言っていたらしいです。よほどいやだったみたいです。この家も処分をしてホームに入ろうと思いますと、奥さんは言っていたらしいのです。とにかく座ったままでお風呂に入れるからと言ってもいやっ!何をするのもいやっ!て言うのです。と奥さんは笑顔で仰ってたらしいです。

 

私は間違っているかも解りませんが、お二人にとっては一番良い結末を選択なさったのかも知れないと、心に言い聞かせておりました。惨めで辛くて恥を忍んで生きるより、80歳で自分の人生を自らの手で終止符を打たれ、夫婦お互いがどちらかひとりになっても生きられないと、覚悟を決めての死出の旅立ちです。

 

今頃は不自由なお体から解き離れて、好きなところへ大好きな奥さんと一緒に旅行なさっている事と思います。同じ男として見事な最後だと思います。最初から最後まで、先輩は先輩のまま自分の人生を生き切りました。だれも先輩を責める事はできません。死んで花実が咲くものかと言いますが、逆に生きていて花実が咲くものかもこの世にはあります。

 

綺麗ごとでは無くて、自分の人生の責任は自分にあるのです。人に迷惑や介在者に、ああでもないこうでもないと言われるのが苦手な人だったと思います。最後まで自分の生きたいように、死にたいようになさった人でした。

 

それから1週間程経った頃かと思います。また警察より電話があり、私に宛てた最後の手紙があると言ってこられました。今まで警察の方で色々と調べていて、事件性はないとの判断なので私に送ると言ってこられました。その送られてきた手紙には、公共料金の支払いの心配や、皆さんに良くしていただいた御礼の内容が大半でした。恨み節や愚痴などひとつも書いていません。奥さんは、主人にひとりで行かすわけには参りません。私も一緒についていきます。と書かれた文章には思わず目頭を押さえました。最後に、遠くより皆様方のお幸せをお祈りいたしております。どうかお許しくださいと、締めくくられていました。

 

役場の人は、故人はどうも海に散骨を希望なさっておられるみたいですが、それはなかなか叶いませんということでしたので、少しでも願いに沿うようにとこの最後のお手紙を灰にして、紀州の綺麗な海に流してきました。

ご夫妻のご冥福を心よりお祈り致しております。

生前に良くして頂きましたご恩は、生涯忘れません。

合掌