赤貧の生活だったからこそ、普通の人なら見落とすことに気づかされた。
そんな詩を読んで人はハッとする。
そうだ、背伸びをしても仕方がないと思う。
スポットライトが当たろうが当たるまいと、誠心誠意努力して、
おれはおれ、縁の下の力持ちでいようと決意する。
そこに広がるえも言われぬ充足感。
相田みつおさんはそんな詩を次々と書いていた。
平成2年(1990年)3月18日、長崎屋尼崎店が火事になった。この日は日曜日でもあり、15人の買い物客が焼け死んだ。お腹に赤ちゃんがいるまま、焼け死んだ若い婦人。一家の大黒柱。これからという若い娘さん・・・・・。この時の社長だった岩田文昭さんは、遺族の家を一軒一軒廻った。半分はけんもほろろに門前払い、家の中に入り仏前に手を合わすことを許してくれた家は半分だけだった。愛する娘を亡くした家ではののしられ、「帰れ!」と玄関のドアを閉められた。礼服のまま、土下座をして謝り続ける岩田社長。ついに玄関を開け、焼香を許してくれたけども、真っ赤に泣きはらした父親からこんな罵声が投げつけられた。「やい!岩田。おれはな・・19になる娘を殺されたんだ。お前も娘がいてるやろ・・・。その娘を殺して・・・ここにつれて来い。そうしたら許してやる・・・おい、娘を返せ!」父親が泣く。岩田社長も泣く。詫びても詫びても詫びきれなかった。訪ねる先が地獄だった。岩田社長の体重がどんどん落ちていった。遺族も岩田社長も苦しんだ。そんなある日、相田さんから手紙が届いた。相田さんの友人がやつれ果てた岩田社長を見るに忍びなくて、励ましてやってほしいと相田さんに頼んだのだ。手紙にはその経緯が述べられ、そんな力は自分には無いから出来ないと書き、ただ最後に良寛の言葉が添えてあった「災難に逢う時節は災難に遭うがよく候。死ぬ時節は死ぬがよく候。要はこれ、災難をのがるる妙法にて候」こんなこともあって、以前から愛読していた相田さんの詩はいっそう岩田社長の胸に響くようになった。
どうもがいても
だめなときがある
ただ手を合わせる以外には
方法がないときがある
ほんとうの眼が
ひらくのは
そのときだ
火災事故から百日目。尼崎で合同慰霊祭が持たれた。その前日、岩田社長は焼け焦げた火災現場をみるかどうか、迷っていた。遺族の悲しみの場所、焼け焦げ変わり果てた店を見るのは怖かった。でも、そのとき、相田みつをさんの言葉が脳裏をよぎった。逃げたらダメだ。正面から捉えるんだ。その言葉に励まされて、岩田社長は現場を訪ねた。慰霊祭の後、ある友人が言った。「よくも代理人に任せなかったなあ」遺族を一軒一軒廻り、交渉していったことを指して言ったのだ。こういう場合、社長自身が針のむしろに座るのではなく、代理人が交渉に行くものだという。でも、そう聞いたとき、岩田社長の胸には「逃げなくてよかった!」という感慨が湧いたという。それもあってか15人の遺族とはすべて示談が成立した。以来、岩田社長はお世話になった方々に相田さんの本を贈った。「自分が救われた本ですからね、みなさんにも読んでもらいたかったんです」
「雨の日には・・・・・」(文化出版局)の書名にもなっている次の詩も相田さんの代表作だ。
勇み立ち、いきり立った肩から力を抜いて、自然体になりなさい、すべてを受け入れるんですよ、相田さんが語りかけてくれているようだ。
雨の日には
雨の中を
風の日には
風の中を