後世(子供たちに伝えたい)に残す日本人の近現代史 米軍を畏怖させた特攻隊  沖縄の海で散華していく若者たち

鹿児島の薩摩半島南端にある開聞岳は標高900㍍あまりだが、東シナ海から直接突きあがったような山容には思わず息をのむ。昭和20年(1945年)4月から6月、20㌔ほど北北西、知覧(現南九州市)の陸軍基地を飛び立った特別攻撃(特攻)機はまず、この美しい山を目指した。翼を振って別れを告げると、ほぼまっすぐに南下する。500㌔余り飛べば米軍の攻撃にさらされている沖縄の海だ。決して帰還することの無い自爆攻撃への旅である。爆弾を抱えたまま敵の艦船や基地に体当たりする特攻が日本軍に登場したのは前年、昭和19年10月の比島沖海戦だった。

海軍第一航空隊司令長官に就任した大西瀧治朗中尉は10月19日、フィリピン・マニラの北、マバラカットの第201航空隊の本部を訪ね、幕僚たちを前にひとつの提案を行った。マッカーサー大将の米軍がレイテ沖に姿を現し翌日上陸を始める。これに対し日本軍は栗田建男中尉率いる「栗田艦隊」がレイテ湾に突入、決戦を挑もうという時期である。大西は突入を成功させるためには、近海に展開している米機動部隊の空母の甲板を、1週間ぐらいは使えなくするまでに攻撃する必要があると力説した。だが201航空隊でもはや30機しかない状況で250㌔の爆弾を積んだ零戦(零式艦上戦闘機)を体当たりさせるしかないというのであった。

幕僚らは賛同、隊内から志願した24人により20日、「神風特別攻撃隊」が組織され、21日から25日にかけレイテ湾などの敵艦を攻撃、散華(さんげ)していった。第一航空艦隊参謀だった猪口力平大佐らが戦後すぐに書き残した神風特攻誕生の事情である。ただそれは大西の一存ではなく「トップとの黙決の下で行われたとみる方が自然」(産経新聞社編『あの戦争』)との見方も強い。フィリピンに出発前、大西から特攻の必要性を力説された及川古志郎海軍軍令部総長が「決して命令して下さるな」と非強制の念を押したとの記録があるからだ。

そしてこの「異常なる攻撃法」は「航空戦術の一つの型として定石化」(伊藤正徳『連合艦隊の最後』)していく。最も「威力」を発揮したのは20年4月に本格化した沖縄戦だった。沖縄を日本全土爆撃の基地にしたい米軍は4月1日、沖縄本島中部の嘉手納・北谷海岸に艦砲射撃を行って上陸を開始した。これに対し防衛にあたる陸軍第32軍(牛島満中将)は少しでも米軍を引きつけようと、上陸は許しながらも島民とともに持久戦に持ち込み、3ヶ月近くも攻撃に耐えた。この戦いを空から支援したのが特攻だった。知覧をはじめ鹿屋、加世田など南九州各地の基地を飛び立つ特攻機は、沖縄付近で次々と米艦に体当たり攻撃をしては散華していった。

『連合艦隊の最後』によればレイテ以来、神風特攻による戦死者は2198人、航空機は1192機に上るという。その「戦果」は特攻隊員からの報告は届かないのだから日本側は正確な数はつかめない。ただ米側の報告によれば、沖縄戦だけで空母から上陸用鑑艇まで各艦250隻が大部分特攻攻撃により損害を受け、駆逐艦以下の34隻が沈没した。だが「戦果」は他にもあった。『連合艦隊の最後』が書くように「米軍に恐怖の念を与えた痛撃」だった。戦後、米国の航空隊司令が横須賀に駐屯する米軍搭乗員たちに神風特攻機をどう考えるか聞いたところ10人中7人までが「敬意を払う」と答えたという。

国が滅びようとする瀬戸際に一身を投げ出して最後まで戦うという日本人の勇気に、米国人は心から畏怖(いふ*おそれおののく・敬意と尊敬の念を表す言葉)の念を抱いた。このことは戦後日本に対して必要以上の苛酷な占領政策を避けたことと無縁ではない。日本人への畏れが日本を守る「抑止力」の役目を担ったことも事実だろう。その意味で、特攻隊員たちの散華は決して無駄な戦いでも死でもなかったとして、語り継いでいかなければならない。

産経新聞7月13日より(皿木善久氏)

 

私も関西商誠会の面々と3年前に鹿児島県最後の特攻基地と呼ばれている知覧陸軍基地を訪ねました。まだ年端もゆかない青年隊員の遺影をみて驚くのは出撃前の写真の笑顔です。これから死地に旅立つというのに皆が満足げに笑みを浮かべています。ほんとうの心中は計り知れませんが作り笑顔では無いのは確かです。彼等には覚悟を決めて心の中に一点の曇りも無く己の死が少しでも他の者の為になるなら進んで突撃していこうと行動する武士道精神が神々しく光輝いているのです。そして平和会館の中の遺品や遺書などを読ませていただき、ただ々胸が詰まり自然と目頭が熱くなりました。

このような悲劇が数十年前に現実にあったという事実に愕然とします。でも、どの遺書を拝読しても恨み事ひとつ書かずに残された親や兄弟、妻、子供、知人の行く末の心配ばかりしておられます。ここまで強い精神力はその当時の教育によるものと日本人の心の奥底にある民族の遺伝子が働いているのでしょうか、自分はこの特攻隊を特別視をしたり美化して語ろうとは思いませんが、ただこのような先の大戦で散っていった大勢の人々の屍と戦後に強い精神力で復興に立ち向かったの人々の上に今我々は平和を享受して生かされていることを忘れてはなりません。

平和を愛する一人として言っておきたいのは、もし平穏で幸せな暮らしと民族の歴史と発展を脅かされ滅ぼされそうになれば、また立ち上がる勇気と気概を持たなくてはならないのです。なにがあっても、どんなことがあってもそれを許して負けてはならないのです。平和とは戦いを避けて相手に屈するということでは決して無いのです。そして事なかれ主義で民族の衰退を見て見ぬ振りは出来ないのです。平和と日本民族を護るために戦わなければならないということもあると強く心に刻んでほしいものです。今年ももうすぐ8月15日を迎えます。心静かに命を賭してこの日本を護った先人たちに鎮魂の祈りを捧げたいものです。

声帯ポリープの手術を終えて

私事で恐縮ですが今年の4月頃に知人達とカラオケで何十曲も歌いその後で旅先のホテルで夜遅くまで馬鹿話をして大笑いをしたり大声で必死になって雑談をして楽しみました。そしてその翌日、朝起きてみるとびっくり仰天、全く声が出ないではないですか、なんとか出そうと必死になるのですがやっとのことでかすれ声だけがかろうじて出るだけでした。

こりゃ夕べは馬鹿みたいにはしゃぎ過ぎたかなと反省したもののこれは困った事になってしまい予定を切り上げていつもの耳鼻咽喉科に向かいましたが、このような時に限って休みなんですね、仕方が無いのでここは内科で診察を受けて急場をしのごうと思い薬を喉に塗ってもらい風邪薬を処方してもらって帰りました。

しかし4~5日経っても全く声が元通りにならず知人に相談したらそれって声帯ポリープと違う?って云われこの俺がそんな軟な病気になるはずが無いと思いつつも万が一という事もあるので一度、耳鼻科に行ってみるかと、いつもの耳鼻科に出向きました。そして先生に声が出なくて困っていると話をしてポリープが出来ているのでしょうかと聞いてみたところ、先生は、じゃあ一度スコープをいれて診てみましょうと言う事になり鼻の穴から管の先にカメラがついてあるものを入れられて恐々モニターをみれば確かに2ミリほどのポリープが声帯に出来ていました。

あちゃ~!こんなもんで声が出ないのかと感心しながら先生には手術で取るのが一番早いと言われ考えておいてください。ただ稀に放置して綺麗に治る人もいてるけどと言われたので自分はその稀な人だと信じてしばらく様子を見ることにしました。そうするとだんだん声も出るようになりこのままで完治するだろうと高を括っていたら日によって声が出たり出なかったりと声を出すのに喉に負担をかけて知らずに力が入っているんですね、すぐに炎症がおこり喉が痛くなります。

これは覚悟をして手術したほうがいいかもしれないと思いつつセカンドオピニオンということもあるのでもう一軒違う病院で診てもらいました。結果はやはり同じで手術が一番の近道ですといわれましたが、手術をするとまず全身麻酔で眠らせ、口から喉に管を入れてその中をスコープが入りポリープを切除するのです。その後が大変、1週間は声を絶対に出さないことで、すべてのコミュニケーションは筆談です。

私のような喋りが1週間も喋らなかったら死んでしまうのではと思うからです。これは究極の人生での罰ゲームです。そして2週間はお酒もスポーツもだめで喋るのも必要最低限を極力小さい声で喋るようにとの色々な制約付です。これはどうしたもんかと悩みながらそれとなしに日が経っていきました。でも良く考えればこれからも仲間たちとカラオケも行きたいし長いこと話もするのでここは思い切ってポリープを取ってしまったほうが得策と考えて決心しました。

そして手術当日は9時半から施術で8時20分に来てくださいといわれそのとおりに出向いていき注意事項などを聞き、さあ手術室に入り手術台に横になりました。麻酔科の先生が左手の血管に麻酔薬を注射されるや否やすぐに意識が無くなり次に目が覚めたのは病室のベッドの上でした。手術の時間から数えると1時間少し眠っていたみたいです。その間、なにがあったのかさっぱり分かりません。

でもそのあとでうっかり喋ろうとするもんなら看護士さんに、あ、だめですと何度も注意を受けて叱られます。その度に口を押さえてすみませんと頭を下げる始末です。早く1週間が経たなければ洒落にならないと気が焦るばかりです。さあ、これは家でも大変です。必ずどこかで声を出して喋ってしまうんですね、でも自分では極力意識をして我慢しているのですけどね、ほんとに今回は普段、何気なく話が出来ると言うことはなんと幸せなことか、ポリープ手術の後で改めて感じた自宅待機の日々でした。

第23回“のり海苔祭り”を終えて

DSCF2369皆さん、いつもありがとうございます。今回は6月29日の日曜日に第23回目の“のり海苔まつり”を開催致しました。

今年は梅雨入りから雨らしい雨が降らずに空梅雨で水不足になるのが心配でしたが、週間予報ではこの週はやっと梅雨らしいお天気になると言われていました。でも週の後半で曇りのち晴れという予報に変わりイベントは良いお天気の中で開催できましたが、少し雨も降って欲しいですね、

当日はいつもどおり9時にオープンする予定でしたが、8時半頃から何名かのお客様が並び始めておられましたので、少し早めに会場に入っていただきました。オープンの9時頃にはもうたくさんの来場者であふれかえり、会場は活気に溢れスタッフも誠心誠意お迎えいたし、商品の説明をして販売をさせて頂きました。当初より売上を上げるのが一番の目的では無く、本当に美味しい海苔を大勢の方々に食べて頂きたいという思いで始めた行事で、売上はあくまで皆さんより支持されているかどうかのバロメーターのひとつだと私は言っております。それが今では回を追うごとに来場者が増えて4時間の販売時間があっという間に終わります。

今回もたくさんの入場者が来られるだろうと予想をしてそれなりに商品は用意をしていましたが12時頃には品切れ品も出てご迷惑をお掛けいたしました。次回はこのようなことのないように万全の態勢で望みたいと思います。ほんとうにご来場ありがとうございました。

また4月にネット販売のぐるなびも好調な売れ行きをしております。こちらのほうも宜しくお願いいたします。

最後にこれからもDSCF2360本物の商品を皆様方のお手元に…をモットーに邁進して参ります。