戦艦大和造船所 PART2 江田島海軍兵学校をたずねて

その大和の最後に心を痛めながら翌日は江田島の

海軍兵学校(現在は海上自衛隊第1術科学校)に見学に

いきました。折しもその日は広島原爆慰霊祭の

8月6日の日でした。午前8時過ぎに呉のフェリー

乗り場の待合室で船を待っている丁度その時にあの

午前8時15分の原爆投下の時を待合室のテレビが

放映していました。私と友人は、すかさず席を立ち

鎮魂の黙祷を捧げました。ところが待合室には

5~6人の人がおられましたが同じように黙祷をして

おられた人はご婦人ひとりでした。うそ!と心のなか

でつぶやき広島の方があの忌わしい原爆の犠牲に

なられた方の御霊に哀悼の気持ちを表さないことに

驚きと落胆が心をよぎり、この出来事も時と共に

風化していき、いずれは忘れ去られていくのだろう

と悲しくなり、大事なのは先ではなく今、貴方はどの

ように思っているのかだろうと腹立たしく感じながら

フェリーに乗り込みました。

その日はお天気も良く波間に浮かぶ遠くの景色を

楽しみながら数十分で江田島港に到着しました。

それからは乗り合いバスで目的地の兵学校まで

すぐに到着しました。そこにはピーンと張り詰めた

心地の良い空気が漂い凛々しい自衛官の方が応対

してくださり氏名を記入して見学者控室にて海上

自衛隊の歴史ビデオを見させて頂きました。

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そして担当官の方と共に兵舎を見学に廻りました。

大講堂や幹部候補生学校庁舎を案内して頂き、最後

に教育参考館を見させて頂いたときはさすがに

背筋が伸び畏れ多い気がして一礼をして館内に

入りました。そこには勝海舟の書から先人の有名な

軍人の方々の書物や遺品、特攻隊の遺書やら数々

の人達がこの国を護るために散っていった命の重さ

を感じることが出来ます。これほどの神聖な場所は

初めてでした。

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是非皆さんも一度訪問なされたら良いかと思います。

いや、日本人なら必ず行かなければならない気が

しました。その広大な敷地には塵ひとつ落ちていな

いし、きちっと整備・清掃されている施設には心も

洗われる気がします。

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何人かすれ違う若い自衛官の方も鍛えられた肉体と

精神が体と顔つきに表れ、街なかではあのような引き

締まった顔つきの若者にはお目に掛かれないであろう

と思いました。

また、兵学校の表玄関は海に面しており、そこには

戦艦陸奥の主砲が砲身を上げてその勇姿を今なお

見せてくれています。その陸奥のあとに建造された

大和は世界の技術立国である日本の最新技術の

粋を集めた戦艦でした。その技術を敵国に盗まれる

ことを恐れまた戦利品として持ち帰られることを避ける

ために出撃をしたのではないかとも言われています。

そのお陰で戦後10年で造船技術は世界をリードする

までになり自動車産業や家電産業、カメラ、鉄鋼業

など戦後の日本経済を支えるすべての科学技術の源

は大和にあったと言っても過言ではないと思います。

その大和と運命を共にされた英霊に尊敬と哀悼の

念を持ち続けたいものです。

そしてその緊張から解き放たれて楽しみのレストラン

で有名な海軍カレーや海軍コーヒーなどの美味しい

昼食をとり大阪に帰る道中でほんとうに今の時代が

良い時代なのかどうか深く考えさせられ自分の生き

方や考え方にも大きな影響を与えられた2日間の

旅だったと感じながら帰阪の途につきました。

広島県呉市戦艦大和造船所を訪ねて PART1

山徳社長ブログ鍛心塾 VOL,0810

去る、平成25年8月5日に関西商誠会の副会長と車にて大阪を7時に出発致しまして

一路呉市に世界最大の軍艦と言われた戦艦大和の生と最期の歴史を探訪してきま

した。

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まずは大和ミュージアムに赴き館内に入る前に海に迫り出ている所あり、これはなに

かなと思い良く見ると大和の艦橋(司令塔)から艦首をた左半分同寸の甲板で、その

本物の大和の甲板の長さを実感でき少し動ものでした。

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そしてミュージアムの中に入り、まず目に飛び込んでくるのは大和の10分の1の複製

です。その精密さには驚かされます。

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もともと広島の呉市は日本最大の海軍軍需工場があった場所で戦艦や戦闘機が開発・

製造されていて「戦艦大和」もこの地で作られました。その当時の戦艦や弾丸を展示し

あるのが大和ミュージアムと呼ばれる呉市海事歴史博物館です。してあの日、19

45年4月7日大和は最後の特攻任務を受け乗組員3,332名をせて沖縄に出撃して

ったのです。この大和は昭和16年12月16日に竣工されました。 世界最大といわれ

以はまず船体の長さが263メートル、基準排水量は64000トンで世界2位のアメ

リカのアイオワ級戦艦でも45500トンでした。 主砲は46センチ砲3連装砲で30km先

の距離の40センチの鋼板を貫き、大和の装甲は46センチ砲の砲撃に耐えうる船体

でした。

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その大和も数々の海戦では作戦の失敗で主だった活躍もしないままその日を迎えたの

です。日本の戦況は不利に陥り、米軍が沖縄を占領するのも時間の問題でした。このま

ま沖縄の人たちを見捨てるわけにはいかない我々が盾になり沖縄の人たちを救い少し

でも米軍に一矢を報いるという気概で出撃していきました。 生きて帰れるなど誰も思わ

なかったし、我々が死ぬことで残された者達が間違った所を正し新しい日本を作っていっ

てほしいと願ったのです。今を変えるには痛みと犠牲を伴って初めて気づくものがあるの

だと。 従って我々の死は決して無駄では無い犬死にでは無いことを心に信じ勇ましく出

撃して行ったのです。

そして1945年4月7日14時23分鹿児島県の坊の岬沖で米軍機386機による攻撃をう

て2の爆発のあと轟音を立てて乗組員と共に沈没していきました。 後の人達は日

本軍がバカだったから負ける事は分かっていたのにたくさんの犠牲を払って被害を甚大

なものにしてしまったと言われるが、その当時の大本営は頭の良いエリート集団で武士

道精神にのっとり彼らは率先して自分の命で他を守ろうと考えていました。 最後まで抵

抗したのは後の講和条約を締結するにおいても少しでも有利に事が運ぶように考え、

後まで本と戦えば我が軍にも多大なる犠牲が生じるし日本軍は最後のひとりになるま

で戦ってくるに違いない、これは終わりの無い泥沼の戦いになると思わせて早く戦争を

結させるために率先して戦って死んでいったのです。 しかし軍人は死ぬのは当も覚

悟だが、女や子供そして年老いた民が犠牲になるのは耐え難い苦痛であり、最後は原

爆とう悪魔の兵器で降伏をせざるを得なかったのでしょう。 日本男子の武士道精神

考えは、武器をもって戦ってくる者には容赦せずに挑んでいくが、無抵抗の兵隊や一般

市民に切、手を出さず情けを掛け助けたものです。 それが証拠に敵の戦艦を撃沈

せた時は乗員が救助されるまで日本の戦闘機は燃料が無くなる事が分かっている

にもかかわらず、救作業を見届け翌日またその場所に慰霊の花束を投下しに行ったと

云われます。 それに比べ大和が沈没して乗組員が波間に漂い救助を待っている時に、

米軍機はその待ている兵にで機銃掃射を容赦なく打ちまくっていました。そこが両国

の精神性の高さ違いなのです。米軍も日本人の底力と頑強な精神が怖かったのかも

知れません。私はこの頃の軍国主義の教育が男子の本懐は戦死にあると教え、喜んで

死地に旅立っていったと云いますが、これは軍国主義うんぬんではなく日本男子の遺伝

子の中には、やはり武士道精神が根強く受け継がれているものと思います。卑怯なこと

は嫌い悪を憎み弱いものを助け自分を犠牲にでも忠義(国や愛する者)のために生き

る。 いかに死ぬかはいかに生きるかに基づく考えなのでしょう。

世界最大の戦艦大和は北緯30度4317秒、東経128度04分00秒、水深345mに

静かに眠っています。             

 PART2に続く