(その笑顔ひとつで・・・)

あなたがそこに ただ いるだけで

その場の空気があかるくなる

あなたがそこに ただ いるだけで

みんなのこころがやすらぐ

そんなあなたに わたしもなりたい

                       相田 みつを

 

 人とは己の業を背負い生きていくもので、己のなかで何が正しくて間違っているか日々心で問いただし暮らして行くものである。

 己の中の正義であっても他人には悪かも知れない、それは自分を中心に考えれば都合の良いのが善で悪いのが悪であるが己の善は人にとっては悪で人の善は己の悪かも知れない、とかく人間とはエゴイストであるものである。

 しかし、そうではない方も世の中にはたくさんおられる。聖人君子ではないが、ただそこにいてもらうだけでその場所が明るくなり、なにを言うのでもなくその存在が柔らかな光のような人、これは存在の愛というもので、あなたがその場所にいてくれるだけで皆に勇気を与え、喜びを与え、その笑顔ひとつで救われる。自分もそのような人になりたいものです。

第19回のり海苔まつり開催

第19回のり海苔まつり開催

去る、6月23日の日曜日に第19回目の、のり海苔祭りを開催致しました。

今回もたくさんのお客さんが来られ大変な賑わいでほんとうに有難うございました。毎回、思うことなんですが3ヵ月に1回ということもあり、おひとりが買われる数量が非常に多いのには驚きます。主催者側と致しましてはこの上ない喜びで嬉しいかぎりです。これからも価値があって皆様に喜ばれる商品を造らなければならないと今一度物造りの原点を再確認できた貴重な時間です。回を追うたびに海苔を始めその他食品も多数出品しております。

のり海苔祭り写真

しかし販売商品については安全安心はいうまでもなくそのおいしさが“本物”でなければならないという取り決めがあり、販売する前に厳選に審査をして、その品質の高さをクリアーした商品だけをご案内するようにしております。

次回9月28日(土)は記念すべき第20回目を迎えます。いつもより楽しく記念イベントにふさわしい企画で皆様をお待ち申し上げております。

弊社汲田靖一会長逝去の痛み 後半

山徳社長ブログ鍛心塾 VOL,0705
弊社汲田靖一会長逝去の痛み 後半

 前半にも書きましたが、兄と私は心の奥底から話し合い喧嘩もして、ようやくほんとの意味で兄弟の絆を交わす事が出来たのです。

 そして、次に兄が望んだのは本業である海苔の工場を自前で持ちたいと言う長年の夢を実現さそうと考えたのです。そこで、私はスーパーやまとくの売り場面積を約半分の35坪に集約して、主に生鮮食品だけを販売する店に業態を変え、営業時間も午前と午後の4時間にして新たに開店させる傍らで、残りのスペースを使って海苔加工工場を造り、焼海苔の加工ラインを1ライン新設したのです。その当時の会長は、私の父でニコニコのり㈱を退職して弊社の会長をしておりました。父も厳格な商売人でしたので、お前が店も工場も両方見なければならないと、きつく諭され、それだけの責任を持って両立が出来るだろうかと夜も眠れずに考えましたが、他に適任者がいる訳でもなく「よし!」と腹をくくり、私はスーパー部門の仕入れで今まで通りに朝早くに卸売市場に買い出しに行き、帰ってからは店の従業員に的確な指示を与え、息つく間もなく加工工場のラインで海苔の加工をしておりました。

 私は、生鮮の青果や鮮魚などはなんでも知っておりましたが、海苔の加工は初めてで海苔の等級や草質によって上手く焼けているのかどうかが、なかなか判断がつかず、よく寿司屋の店主からはこっぴどく叱られ、返品を余儀なくされる事もありました。一日でも早く一人前にならないといけない思いで、お昼休みも返上して海苔の倉庫に入り色々な海苔を目に焼き付けて覚えたものでした。その頑張っている時も兄は何も言いませんでしたが、私の仕事の理解と手助けを良くしてくれました。そしてようやく海苔の工場が上手く稼働しだした頃合いを見て、スーパー部門を閉鎖して更なる海苔工場の運営の充実を図っていきました。そして順調に稼動し安定期に入る仕事量で1年半位過ぎた頃の昭和60年の8月に現在の堺市美原区(その当時は南河内郡美原町)に本社と工場を移転しました。兄が37歳で、私が30歳の時です。それまでの本社社屋は自社物件ではなくてすべて借り物の社屋でした。兄は初めての自社の社屋を持ちたかったのは分かりますがこの物件は600坪もあり、現状の必要スペースからはかけ離れて大きい倉庫であり工場でした。そして、なによりもかなりの借入をしなくてはならないので、我々は将来に一抹の不安を感じて喜んで賛成する気持ちにはなれませんでした。また、その決断には大きなリスクがついてまわるので、我々現場を任されている者にとっては身が縮む思いでした。そこで全員で反対をして少し考え直してほしいと社長である兄に進言をしたのです。でも、兄は首を縦には振りませんでした。なにがなんでも移転をすると言って聞きいれません。兄は総合的に見て今が物件を手に入れるのは一番のチャンスと見たんでしょう。後日談になりますが、知人から聞いた話では当時この決断には夜も眠れなかった程のプレッシャーがあったらしいです。よくその知人に相談していたと聞きました。そして我々も、もう前に進むしかないと覚悟を決めて昭和60年8月のお盆休みに移転を致しました。

 当初はあまりの倉庫の広さに商品を積み重ねるのではなくて、平積みをして場を埋めてしまわないとカッコがつかない恥ずかしいくらいのスタートでした。それからは全員の力を結集して海苔の工場と卸売問屋部門との両立が順調に推移致し、工場ラインも3ラインに増設して売上もそれなりに伸ばしておりました。そして、昭和63年に私は兄より常務取締役を命じられ尚一層の責任と運営を任されるようになり、その後も工場のライン数を増やし、小袋の充填機できざみのりを詰めて大手のコンビニチェーン店に採用が決まるなど兄と私、そして信頼できる従業員達と共に社業に没頭して行ったのです。我々は夜遅くまで工場で残業をしたり、時には朝方まで製造したりしていました。毎日、忙しくて体はきつくても兄や皆と一緒に楽しい仕事をしている実感がたまらなく、本当に充実した日々でした。

 そうして、平成5年に33年間もの間、お取引をさせて頂きました某チェーンスーパーさんにこちらのほうから問屋業としての取引辞退をお願いしに行きました。先方は驚いて、「毎日新規で取引をしてくださいと来られる業者は沢山おられますが、辞めさせてくださいと言いに来たのは山徳さんが初めてです」と、言われました。弊社もこのスーパーさんで年間3億強の売上をしておりましたが、それよりも毎日のように少なくても配達があり、18店舗ある店に各店配送で前日の夕方から品出しをして夕方トラックが帰ってくるのを待って積み込み、一連の作業がすべて終わるのは毎日午後10時か11時頃になっていました。その割に、収益率が良くなくてお得意先に責任を果たすという大義名分だけで取り組んでおりました。その頃には工場も忙しくなってきておりましたので、将来の方向性を考えれば海苔事業に特化して商いをするほうが明るい未来を語れる企業になると兄と話をして決断したのです。しかし、その部門に携わっていた従業員が5名程いておりましたが、リストラするわけにはいきません。そこで、有力コンビニチェーンの米飯工場に海苔の管理をして大量にデリバリーをする事業をタイミングよく請負う事が出来、その部門の人間を誰一人辞めさすことなく新しい業務を引き継ぎ任務を遂行させていったのです。

 それからは工場中心の海苔製品の拡売を始め数々の特許製品を取得して、平成11年には資本金を3000万円に増資をして、翌12年にはハセップ方式(危害分析重要管理点方式)など最新の安全衛生システムを取り入れ、ますます充実した会社運営で躍進していた最中、平成14年のある日、私はお得意先で商談を終えて皆さんと雑談をしていた時に私の携帯が鳴りいつものように、はい!汲田ですと応答すると会長の長男である弊社マネージャーより開口一番、社長が心筋梗塞で病院に運ばれましたとの知らせを受け、私は耳を疑い全身に寒気が走り茫然として立ちすくんでおりましたがすぐ我に返り、慌てて病院に駆けつけました。

  兄は集中治療室に入っており、現在どのような状態になっているのかは全くわかりませんでした。暫らくして主治医からの話があり、今のところ命の危険はないが予断は許されない状況と報告を受け、とにかく一命を取り留めてもらい良くなる事を祈るばかりでした。その後も仕事は待ってはくれませんし、日々走り回っている中でも兄の事が気になり気が気ではありません。そして暫くの入院生活の後、ようやく退院できた時はほんとうに嬉しかった事を覚えております。また一緒に仕事ができると喜んだのも、つかの間で今度は脳内出血で病院に運ばれ、また入院をすることになり、それ以後は次々と循環器系の病やらその他の病気を併発して入退院を繰り返しておりました。そして、平成16年には私に社長になってくれと言いだしましたが、私はこんなに弱気で今にも病気に負けてしまいそうな兄を見て、「仕事は僕と信頼できる従業員が大勢いてるので、大丈夫だから心配せずに任せておいてくれ。そんな兄貴が弱っている時に僕に社長を譲らないでほしい。僕に譲る時は、俺は他にしたい事があるからお前が社長をやれ、と元気よく僕に言ってほしい」と頼みました。そして、早く病気に打ち勝つように発破をかけました。

 しかし、それからも病状は悪くなるばかりで、これ以上は逆につらいだろうと感じ私は平成17年に社長に就任する事になりました。その後も体調の良い時は、午前中は出社し、昼食を私や側近の者と済ませ、自宅に帰る日常が続いておりましたがその間も入退院は繰り返しておりました。兄は会社の政策の事は一切口には出さずに私の思う通りにやらせてくれました。しかし、その政策が良いのか悪いのかも言ってくれずに報告はするものの助言などはありませんでした。ただ何回か病院に見舞いに行っていたある日、普段はあまり、ものを言わなくなっていた兄が一言、「おまえがいてくれてほんとうに良かった」と言ってくれた時は万感の思いが込み上げ、これまで色々と難儀をしたり迷ったりした事が一気に心の中から消え去り、兄を慕う気持ちがより一層高まり、ただ自然にありがとうと心でつぶやいていました。

 そして、平成24年7月にすい臓がんの告知を受け手術を施し、ひとまずは成功したのですが11月に他の臓器に癌が転移しているとの報告を受けて、余命半年と告知されました。兄の家族たちは、ほんとうに不眠不休で献身的に看病をしておりましたが、平成25年5月4日家族に見守られ、また惜しまれつつ65年の人生の幕を静かに降ろしたのです。私も一報を受けてすぐさま駆けつけましたが臨終には間に合わず、兄との思い出を涙が出るのを堪えながら脳裏に浮かべて冥福を祈っておりました。ほんとうに優しい懐の広い私は大好きな兄でした。今頃は親父やお袋と天国で楽しく語り合ってくれている事と思います。これからは、私と共に従業員全員が今以上にすばらしい会社を作れるように全力で立ち向かい、記念すべき創業100周年には関係各社の皆さんに良くやったと喜んで頂ける企業を目指し頑張ってまいります。

 兄貴、ほんとうに有難う、いずれ僕もそっちに行くから、また一緒に商売を始めような!

兄、汲田靖一を心から信頼して慕っていた弟より

                                                                  合掌