弊社汲田靖一会長逝去の痛み 前半

 弊社会長でもあり私の兄でもありました、汲田靖一が平成25年5月4日に65歳の生涯を閉じて永眠いたしました。

 弊社は祖父である徳三郎が大正10年に創業を始め、2代目の父である幸一がニコニコのり㈱を世に送り出し、昭和48年に現会長でありました靖一が新しく社長となり、3代目として改めて設立いたしました。創業からの年数では今年で92年になりますが、再スタートしてからでは今年で丸40年が過ぎ兄は若干26歳で社長に就任致しまして、就任当初は毎朝6時に大阪木津地方卸市場の店に出勤し、午前中は主に大阪市内や近郊のすし屋さん、小売店、飲食店などの店主たちが市場に仕入に来られ店は毎日、大勢のお客さんに囲まれてワイワイと雑談を交え、楽しく商売をさせて頂いておりました。その店は海苔、椎茸、その他乾物品を多数取り扱う約15坪くらいの店舗で、営業時間は午前6時より正午には閉店する市場業ではそのスタイルが大半の店でした。そして、店を閉めて近くにある本社に帰り午後からは店の人達は阪神地区から泉南、和歌山までのすし屋さんに海苔、干瓢など寿司材料を納め、スーパーマーケットや公設市場の中の乾物店に弊社の製品の他、卸売業もしておりましたので各メーカーの製品など配達を兼ねて営業をしておりました。

 私はその頃はろくすっぽ大学にも行かずに、アルバイトで店を手伝っており毎日、店の仕事が大変忙しくて、てんてこ舞いの日々を過ごしていました。そして驚いたのは、午前中の店の売上だけで100万円近く水揚げする日も珍しくなく、商売とは面白いもんだなあと商いに興味を持ち始め、ますます大学には行かずに商いに夢中になっておりました。現在も市場で商いをしておりますが、その当時は今とは考えられない程の盛況ぶりで懐かしく思い出します。

 世の中も40年も経つと時代が変わり人も変わり変われない者だけが衰退して取り残されてしまうのでしょう。これは市場業だけに限らずそれが世の常なのでしょうね。そこで当時の兄は、これからは現在の市場業と乾物業だけではなく、色々な事業展開をしていくと明言し、私も大学を辞めて商売を覚え将来の可能性に兄と共に賭けてみる決心をしたのです。まず、難波高島屋の地下食品売り場にて乾物品の店をオープンするのに私が開店準備から携わり、一般乾物品の小売と進物時期には椎茸のギフトを大量に販売しておりました。そこで2年間企画と販売業を勉強した後に、兄は次に食料品と日用雑貨のスーパーを開店さすと言いだし、私は高島屋を後任に託してスーパー業の修行にお得意先のお店で暫く働かせてもらい、後に松原で昭和53年に約30坪の店をオープンさせる運びとなりました。

 その店は開店当初から賑わい、1日の売上が平均100万円を超える店舗になり、色んな方が店を見学に来られる程になりました。そして、2号店を今度は我孫子にオープンさせることになりましたが、兄の構想は本社も2号店の2階に移転させて効率運営を計ろうとしたのです。そこで、また私が2号店の店長として抜擢され運営を任されました。しかし、この地域は激戦地区で毎日のように激安チラシが入り、売上はそれなりにあるものの収益が伴わない店でほんとに苦戦をしておりました。兄からは毎日のように叱責をされ、私は毎日、早朝から夜の11時か12時頃まで頭と体を休めることなく頑張りました。でも、業績はなかなか上向いてきません。兄は私と違い頭も良く色んな書物を読み、ひとつの理想論が出来あがっていました。私のほうは現場のたたき上げで理想とは無縁の現実主義で、毎日目の前で起きる諸問題を次々と解決するのに翻弄しておりました。しかし、兄からは毎日のように叱られ理想を聞かされて、このようになぜならぬと問われる度に説明をして私の考えを述べるのですが、いつもそれは言い訳に過ぎないと頭ごなしに決めつけられ、ほとほと参っておりました。この兄には何を言っても無駄と思うようになり、私なりに考えて名案があっても兄がまともに聞いてくれないのであろうと判断して、どんな話があっても聞くだけで返答も差し障りのないまた気のない返事しかできなくなっておりました。そうするとある日、いつもの如く呼び出され、またか、という感じで社長室に赴き椅子に座ると開口一番、おまえは今日で会社を辞めろと言われ私は耳を疑い、なぜ!と聞いても無能だからとしか言ってもらえず、青天の霹靂で部屋を後にしました。

 とめどもなく悔し涙が止まらずに、師と仰ぐ人の所に相談をしようと向かう道中に家内に電話をして、会社を辞めるかも知れないと告げ、しかしなにがあっても家族を路頭に迷わす事だけはしないから心配はしなくていいと、根拠のない安心のさせ方をしていました。今まで全身全霊をこの会社に賭けてきましたので、他へ行って仕事をするなど考えた事もありませんでした。心根はほんとうに不安でしたが、有り難い事に家内は僕の思うようにしたらいいと言ってくれ、九州の実家の近所に住んでおられるお姉さんからは博之さん精一杯やって駄目だったらいつでもこちらに来なさい、ご飯くらいは食べさせてあげるからと温かい言葉を言って頂き、はっと我に帰りこんなことで負けてられるかと、気持ちを新たに知人に会い一連の話をしました。その時にも恥ずかしいくらい涙が止まりませんでしたが、自分の思いは伝えました。そうすると何を思ったのかその人は兄に電話をして社長の話はわかった。だったら弟に松原の店を渡してやれと強硬に話をしてくれておりましたが、私はショックを受けた直後でしたのでそんな店をもらって運営する気にもなれずにただ空虚の心だけが全身を支配しているだけでした。それから心が落ち着くまで知人と話をして会社に帰ると、ほどなくして兄が僕のいる部屋に来て少し話があるからと呼ばれいつものように社長室の椅子に腰をかけましたが、自分は今までとは全く違う心持ちで、どうせ辞めるのだから兄でも社長でもあるか!という開き直りの気持ちで兄に自分の思う本音をひとつ残らずに荒々しく話をしました。その内容の中には本社に対する私の見た悪い所と改善余地のあるところ知らず知らずのうちに熱く語っておりました。そうすると兄は目を丸くして驚いたように、博之、今度本社の会議で今の話をしてくれと頼まれ、おまえがそこまで考えていたとは知らなかった。俺にはなにも言わないからこの俺が嫌いで惰性で仕事をしているのかと思っていた。悪かった、許してくれと頭を下げてくれました。私のほうも何を言っても無駄と思い、兄を避けてその問題からは逃げていた自分が悪かったと、謝った後にお互いが初めて晴れ晴れとした気持ちで心と心が通じ合えた記念すべき日になったのです。

 

この次はいよいよ兄弟愛の発揮で事業拡大です。

また来月書かせて頂きます。お楽しみに!