民族の誇りと使命 ②

皆さんこんにちは、もう7月も残り少なくなってまいりました。躍動感溢れる暑い夏が今年も始まりました。昨年はいつ夏が終わったのか分からないくらい気がつけば涼しい秋風が吹いていました。今年はどうなんでしょうかね、

 

さて先月の話の続きですがこの国の成り立ちは神話の世界からという話ですが元々イザナギノミコトとイザナミノミコトがこの国の創始者でありその子供である天照大神がこの国の頂上に鎮座しておられる神様です。そして八百万の神々が至る所におられると私の子供の頃から言われ続けてきました。家の中ではお手洗いや台所の流し台やあちらこちらに神様はおられると教わりました。

 

だから今でも、お手洗いに唾を吐いたり台所の流しで手を洗ったりは出来ません。小さい頃の教育と言うのは永遠に心に刻み込まれるのです。だから三つ子の魂100までといわれるのでしょう。日本民族は高貴な民で貧乏をしていても人の物を盗むなど卑怯なまねは一番嫌っていましたが、近年はその誇りも失せて人の迷惑も顧みず我がさえ良ければ後は全く構わないという輩が増えてきたように思います。

 

身近なところでは車の運転です。対向車がきて道幅が狭くてこちらが待って対向車に道を譲っても、挨拶ひとつせずにあたりまえのように通り過ぎていきます。私は運転免許を取得して丸41年になりますが、昔は挨拶をするのが9割でしたが今では反対の9割が挨拶一つせずに走り去って行きます。嘆かわしいことです。

 

これはやはり世の中が拝金主義で人の心などよりも金の持ったものが一番の勝者であると勘違いしてしまったことです。あんな紙切れに心を支配されてはなりません。生きていくのに事足ればあとは自分の才覚通りのものが入ってくれば足るを知るでいいのではないでしょうか、そんな欲で不平不満を訴えて心を貧しくするほうが人生馬鹿らしいですよね、世の中の八百万の神々とともに寄り添い人が人であるように生きていけたら最高に嬉しい人生だと思います。

寄せる年波・・・

私はいまだかつてひどい腰痛とか“こむら返り”とかは一度も経験したことが無く自分には無縁のものだと思っていました。その日も快晴の下、客人とゴルフを楽しもうとホームコースでのプレイ、待ち合わせのインター出口で降りて挨拶を交わし、さあコースへいきましょう。

そしてゴルフ場に着きスタートまでは時間があるからとカフェにてティータイム。色々な楽しい話で盛り上がりスタート時間も忘れての雑談、もともと話し好きなので夢中で会話の渦の中に入ってしまっていました。あ、もう時間ですねと気づき急いでカートへ行きアウトの1番に向かいました。丁度前の組とは良い間隔で私がオナーを引き当て第1打を真っ青な大空にナイスショットです。

今日は調子がええじゃないかと自分でよしよしと、皆にはスカあたりですわと、まずは謙遜しておいてメンバーの様子をみます。全員がナイスショットで楽しいゴルフがスタートです。そしていつものようにボギーペースでラウンドして8ホール目のロングホールの第3打グリーン左横のガードバンカーへ、あちゃあー!苦手なバンカーだ!と顔が曇りましたが、しかしここは頑張って出さないと緊張の1打目深く入りすぎてザクッ!と30センチほど前にいったところ、やはり下手糞だなあとイラッとして2打目、バシッと今度はトップをしてギュイーンとグリーンを超えて小高いのり面にボールは止まり、すんませんとメンバーの方に謝り急いでボールのほうへクラブを持ってダッシュ!そしてカート道も“ひとっ飛び”して坂をかけあがるその時に持っていたクラブが右のふくらはぎにあたったかのような かなりの衝撃がありましたが早くしないといけないと思い気にも留めずにアプローチをしました。

ボールは綺麗にグリーンにナイスオン、やれやれと坂をゆっくり下りていくそのときです。ギャギィーン!と右ふくらはぎに衝撃が走りました。なんだ!この激痛は!と訳がわかりません。少し思い出すとさっきのカート道を飛び越えて駆け上がろうとしたときの衝撃は右ふくらはぎを痛めブチッと鈍い音を立てたようなショックだったのです。ありゃー、これはいかんメンバーに迷惑をかける訳には行かないので我慢をして黙ってプレイを続けようとも考えましたが思うように歩けないのです。

これはだめだと思いメンバーに少し足を痛めていることを伝えて自分はこのホールでやめますと言ってカートに乗り皆さんの最終ホールを観戦していました。その時にでも右足はズキズキと疼いてきます。参ったなあとこれからのことを考えながら午後からのプレイは無理だろうなあと思っているときに前半のプレイが終了しました。そしてハーフタイムの昼食を食べながら申し訳ないですが昼からのプレイは無理ですのでどうぞ私の事は気にしないでラウンドしてきてくださいとお願いしました。

そして皆さんを送り出してさあ、どうするかと考え、まずは服を着替えてから良く考えよう、まず車の運転が右足なので出来たとしても危ないのではないかと思い、取りあえず我社の部下に連絡を取り悪いけれど斯く斯く然々と説明して2人に迎えに来てもらいました。待っている間にもズキズキと疼いてきます。それから1時間30分ほど待ったでしょうか、弊社の者がどことなく微笑みを浮かべながら大丈夫ですか、と迎えに来てくれました。

自分はああ大丈夫だよと答えるも歩き方は黒田官兵衛のような歩き方になっております。悪いけれど家まで送ってくれるか、と言って連れて帰ってもらい、すぐさま家人と一緒に病院へ直行です。病院へつくと家人はすぐに車椅子を持ってきてこれに乗ってくださいと言いますが、恥ずかしいなあ、と思いつつも乗って見るとこりゃ楽チンと童心に返ったかのようにあっちこっちへ走り回ってじっとしてません。

そして診察をしてもらいアキレス腱や骨には異常が無い(そのくらいはわかっていましたが)とのことでしたが2~3日は松葉杖歩行で情けない限りでした。あれから3週間が経過してもう大丈夫です。しかし寄せる年波には勝てないと少し実感した怪我でした。

皆さんもくれぐれもお年を良く考え気をつけてスポーツを楽しんでください。

 

 

 

 

 

 

戦艦大和造船所 PART2 江田島海軍兵学校をたずねて

その大和の最後に心を痛めながら翌日は江田島の

海軍兵学校(現在は海上自衛隊第1術科学校)に見学に

いきました。折しもその日は広島原爆慰霊祭の

8月6日の日でした。午前8時過ぎに呉のフェリー

乗り場の待合室で船を待っている丁度その時にあの

午前8時15分の原爆投下の時を待合室のテレビが

放映していました。私と友人は、すかさず席を立ち

鎮魂の黙祷を捧げました。ところが待合室には

5~6人の人がおられましたが同じように黙祷をして

おられた人はご婦人ひとりでした。うそ!と心のなか

でつぶやき広島の方があの忌わしい原爆の犠牲に

なられた方の御霊に哀悼の気持ちを表さないことに

驚きと落胆が心をよぎり、この出来事も時と共に

風化していき、いずれは忘れ去られていくのだろう

と悲しくなり、大事なのは先ではなく今、貴方はどの

ように思っているのかだろうと腹立たしく感じながら

フェリーに乗り込みました。

その日はお天気も良く波間に浮かぶ遠くの景色を

楽しみながら数十分で江田島港に到着しました。

それからは乗り合いバスで目的地の兵学校まで

すぐに到着しました。そこにはピーンと張り詰めた

心地の良い空気が漂い凛々しい自衛官の方が応対

してくださり氏名を記入して見学者控室にて海上

自衛隊の歴史ビデオを見させて頂きました。

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そして担当官の方と共に兵舎を見学に廻りました。

大講堂や幹部候補生学校庁舎を案内して頂き、最後

に教育参考館を見させて頂いたときはさすがに

背筋が伸び畏れ多い気がして一礼をして館内に

入りました。そこには勝海舟の書から先人の有名な

軍人の方々の書物や遺品、特攻隊の遺書やら数々

の人達がこの国を護るために散っていった命の重さ

を感じることが出来ます。これほどの神聖な場所は

初めてでした。

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是非皆さんも一度訪問なされたら良いかと思います。

いや、日本人なら必ず行かなければならない気が

しました。その広大な敷地には塵ひとつ落ちていな

いし、きちっと整備・清掃されている施設には心も

洗われる気がします。

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何人かすれ違う若い自衛官の方も鍛えられた肉体と

精神が体と顔つきに表れ、街なかではあのような引き

締まった顔つきの若者にはお目に掛かれないであろう

と思いました。

また、兵学校の表玄関は海に面しており、そこには

戦艦陸奥の主砲が砲身を上げてその勇姿を今なお

見せてくれています。その陸奥のあとに建造された

大和は世界の技術立国である日本の最新技術の

粋を集めた戦艦でした。その技術を敵国に盗まれる

ことを恐れまた戦利品として持ち帰られることを避ける

ために出撃をしたのではないかとも言われています。

そのお陰で戦後10年で造船技術は世界をリードする

までになり自動車産業や家電産業、カメラ、鉄鋼業

など戦後の日本経済を支えるすべての科学技術の源

は大和にあったと言っても過言ではないと思います。

その大和と運命を共にされた英霊に尊敬と哀悼の

念を持ち続けたいものです。

そしてその緊張から解き放たれて楽しみのレストラン

で有名な海軍カレーや海軍コーヒーなどの美味しい

昼食をとり大阪に帰る道中でほんとうに今の時代が

良い時代なのかどうか深く考えさせられ自分の生き

方や考え方にも大きな影響を与えられた2日間の

旅だったと感じながら帰阪の途につきました。